修験道に学ぶ
著者 | 五條順教 |
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定価 | 本体価格1,600 円+税 |
刊行年月 | 2002年 3月 |
サイズ | B6判 |
ページ数 | 252 ページ |
ジャンル | 宗教・信仰 |
ISBNコード | ISBN 4-88602-183-2 |
著者紹介
五條順教(ごじょう・じゅんきょう)
大正15年、奈良県生まれ。大正大学史学科卒業。
昭和46年に、初代五條覚澄管長のあとを受けて金峯山寺第28世管領に就任し現在に至る。
その間、四無行など数々の行を通して「実修実験」の精神を体現すると共に、現代宗教としての修験道の確立に努める。
著書『修験道のこころ』(朱鷺書房)
大正15年、奈良県生まれ。大正大学史学科卒業。
昭和46年に、初代五條覚澄管長のあとを受けて金峯山寺第28世管領に就任し現在に至る。
その間、四無行など数々の行を通して「実修実験」の精神を体現すると共に、現代宗教としての修験道の確立に努める。
著書『修験道のこころ』(朱鷺書房)
目次より
- 真言宗の教えと信仰
/ 蔵王信仰に生きる / 蔵王信仰と輪廻の思想
/ 山岳宗教のシンボル / 修験の道は菩薩の道
/ 浄財を生かす / 忘己利他
/ 信仰生活五つのいましめ / 役行者と法華経
/ 南無になり切る など
- 修験の道 / 嫉妬心
/ 少欲知足 / 山寺五訓
/ 自利利他円満 / 法主の教え
/ 福は内、鬼も内 / 菩薩道 など
- 死に習う / 無事是貴人
/ 雪に堪えて梅花麗わし / 好奇心
/ くよくよしない / 仕事を楽しむ
/ 一大事 / 天の理
/ 死に習う / 病中こそ修行
/ 希望せよ など
- 命の輝きを知る / 非情の生命 / 慎み深く / 忘れて、捨てて / 私の仏道修行 / いのちのリズム など
あとがきより
師走の仏名会の日にこれを書いている。
仏名会というのは、仏名経を読誦して、過去千仏・現在千仏・未来千仏の諸仏の仏名を唱えて年内の罪障を懺悔する法会だから、この本のあとがきを書くのには一番ふさわしい日のように思える。
今年は九月にニューヨークで同時多発テロがあるなど、例年にも増して騒々しい年であった。人間の社会はいつになっても治まりそうにない。
私たちは「四海静謐」を祈願するが、それはなかなかそうなり難いことだからこそ祈るのであろう。
人間の罪深さに、ただただ懺悔、懺悔、である。
十数年前になるだろうか、朱鷺書房から『修験道のこころ』が出版された。今度二冊目がでることになった。やはり十数年来金峯山寺報などに書いてきたものをまとめたものである。眠っていた子どもが目を醒ましたような心地がしないでもない。文章というものは子どものようなものだと思う。
それだけに、文章には書いた人の境涯のすべてが出るのではないだろうか。
こわいことである。
書蹟もそうだ。
「書は人なり」というが、「文章は人なり」と私は思っている。 書の上手下手、文章の上手下手、これはどうしようもないものだ。
書のほうはまだ修練によって上達を望むこともできようが、文章だけは天性の部分が多いようである。だから、文章は上手でなくとも仕方がないとあきらめている。
私は、人間年をとれば、心も老成して立派になるものと思っていた。しかし、実際に年をとってみると、心が熟するということもなく、一向に立派になったとも思われない。若いときと同様未熟のままである。
しかし、未熟のままでよいではないかと思うようになった。
そのままの私を仏様は受け取ってくださるのだ。あるがままでよいのである。
私の好きな言葉に「明歴々露堂々」(はっきりと顕れていて少しも隠すところがない)というのがある。『修験道に学ぶ』を出すにあたって、私はいま、そのような心境である。
仏名会というのは、仏名経を読誦して、過去千仏・現在千仏・未来千仏の諸仏の仏名を唱えて年内の罪障を懺悔する法会だから、この本のあとがきを書くのには一番ふさわしい日のように思える。
今年は九月にニューヨークで同時多発テロがあるなど、例年にも増して騒々しい年であった。人間の社会はいつになっても治まりそうにない。
私たちは「四海静謐」を祈願するが、それはなかなかそうなり難いことだからこそ祈るのであろう。
人間の罪深さに、ただただ懺悔、懺悔、である。
十数年前になるだろうか、朱鷺書房から『修験道のこころ』が出版された。今度二冊目がでることになった。やはり十数年来金峯山寺報などに書いてきたものをまとめたものである。眠っていた子どもが目を醒ましたような心地がしないでもない。文章というものは子どものようなものだと思う。
それだけに、文章には書いた人の境涯のすべてが出るのではないだろうか。
こわいことである。
書蹟もそうだ。
「書は人なり」というが、「文章は人なり」と私は思っている。 書の上手下手、文章の上手下手、これはどうしようもないものだ。
書のほうはまだ修練によって上達を望むこともできようが、文章だけは天性の部分が多いようである。だから、文章は上手でなくとも仕方がないとあきらめている。
私は、人間年をとれば、心も老成して立派になるものと思っていた。しかし、実際に年をとってみると、心が熟するということもなく、一向に立派になったとも思われない。若いときと同様未熟のままである。
しかし、未熟のままでよいではないかと思うようになった。
そのままの私を仏様は受け取ってくださるのだ。あるがままでよいのである。
私の好きな言葉に「明歴々露堂々」(はっきりと顕れていて少しも隠すところがない)というのがある。『修験道に学ぶ』を出すにあたって、私はいま、そのような心境である。
平成十三年十二月吉日